プロ野球ニュース1980年-王貞治引退
王貞治・・・
もう1年やって欲しかったな
王貞治さん-アマゾン
王貞治・・・
もう1年やって欲しかったな
王貞治さん-アマゾン
清原本人も自分は恵まれすぎていると自認していたが、それだけにジレンマを感じていた事とFAの資格を得て、巨人への移籍が可能になったことから、オフにFA宣言。
阪神監督・吉田義男の「(ユニフォームの)縦縞を横縞に変えてでも…」[
巨人監督・長嶋茂雄の「僕の胸に飛び込んできなさい」という口説き文句が話題となった。5年契約で念願の巨人に移籍し、背番号は長嶋が自らの永久欠番3を譲る考えも明らかにしたが、「5」に決定(後に契約金は阪神の方が倍近く高かったが長嶋監督の心の広さに感銘した、とTV番組で明かしている。
当時阪神で背番号3をつけていた八木裕も清原加入の際は同番号を譲る意思を表明していた)。なお、このことで一塁を守っていた当時43歳の落合博満が出場機会を求め日本ハムに移籍。
巨人退団会見で落合は「清原と勝負して負けるとは思わないが、(落合と清原の)どちらを使うかで悩む監督の顔は見たくない」というセリフを残している。3番・松井秀喜とのコンビは「MK砲」と呼ばれた。後に高橋由伸が加わり「MKT砲」となる。
本シリーズは、下記のとおり、巨人が3連敗後の4連勝で、8年ぶり17度目の日本選手権制覇となった。「3連敗後の4連勝」は1958年、1986年の日本シリーズで西武ライオンズ(1958年当時は西鉄)が制した事例に次いで、2チーム・3回目のケースだった(4連敗したのは1958年が巨人、1986年が広島東洋カープである)。 巨人の藤田元司、近鉄の仰木彬の両監督は、いずれも選手の力を引き出すことなどで「マジック(魔術)」と呼ばれたこともあり(「仰木マジック」 [1]、「藤田マジック」[2])、当時の報道では、日刊スポーツは「マジシャン初対決」という特集記事を掲載した[3]。 セ・リーグのチームによる制覇は1985年以来となり、本シリーズ終了に際しての川島廣守セ・リーグ会長コメントでも、直前3年間はパ・リーグのチームが制していたことへの言及があった[4]。 本シリーズの入場料収入は7億5273万5900円(消費税込み)。選手・監督らへの分配金は、巨人が約4777万円、近鉄が約3184万円。球団への分配金は、両球団とも約1億6685万円であった[4]。 巨人はこの年近鉄と対戦したことで当時存在したパ・リーグの6球団全てとシリーズで対戦・勝利した。日本シリーズにおける藤井寺球場の使用はこの年のみである(他の近鉄出場の日本シリーズは、1979年と1980年は、藤井寺球場は当時ナイター照明設備が未整備で、大阪球場が使用され、2001年の時点では大阪ドームが本拠地であった)。一方、前年に開場した東京ドームでの日本シリーズ開催はこの年が最初となった。
槙原寛己・・・最高だわ、バックスクリーン3連発の裏話
そもそもバックスクリーン3連発
バックスクリーン3連発(バックスクリーン3れんぱつ)とは、1985年(昭和60年)4月17日に阪神甲子園球場で行われたプロ野球・阪神タイガース(以下阪神)対読売ジャイアンツ(以下巨人)の試合において、阪神の当時のクリーンアップ(ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布)が7回裏の攻撃時に、巨人の槙原寛己投手が6球を投じる間に3者連続でバックスクリーンおよびその左へ本塁打を打ったという出来事を指す。阪神ファンの間では「伝説の三連発」とも呼ばれる。
初めて語られたバックスクリーン3連発裏話
プロ野球最強のキャッチャーは誰だ!?最強ベスト10を決定! 前編